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大人になる前にしておくべきこと

昔、芥川龍之介が神田かどこかの女学校に講演に行ったのですが、そのときに、ある女学校の生徒が立ち上がって、

「先生、私は作家になりたいのですが、作家になるのに今のうちに何をしたらいいでしょうか。」

と聞いたそうです。そうすると、芥川龍之介が

「算術をよくしときなさい。数学をやりなさい。」と言ったそうです。

私がもし、女子校で講演をして同じ質問をされたとします。

「私は数学者になりたいけれども、今のうちにどういう勉強をしたらよいだろうか。」

という質問をされたとしたら、

「今のうちによく文学を読んでおきなさい。」と必ずそう応えると思います。

そのような教育というのは、今言ったような出発点Aを選ぶということなのですけれども、学問をする上でも非常に重要なことです。

そういうことがないと、なかなか大きくなれない。

特に、お茶大のすぐ側に、お茶大は護国寺というところを降りるのですが、護国時の地下鉄を降りると、講談社なのです。

講談社の右手を上ると、そこに「少年少女世界文学全集」というのがあって、その横に「早く読まないと大人になっちゃう」と書いてあるのですね。

私はその文章をを見て、非常に感激したのです。

早く読まないと大人になっちゃう」、やはり子どもの頃にしておかなければならないことがあるわけです。

それが、まさに国語であり、文学を読むこと、そしてそれを読んで涙を流すことですね。そういうことが、大きな一つではないかと思うのです。

あるとき、数年前に、「朝日ジャーナル」という雑誌がまだあった頃、何人かの人々に子どものときに読んだ本で一番感激した本をもう一度読んでみて、それについて感想を書くということをやったのです。

私も頼まれましたが、私が小学校のときに何に感激したかといいますと、『クオレ』という本に一番感激したのです。

これは、今ではもう流行らないらしいのですけれども、「愛の学校」とかいう、その中には「母を訪ねて三千里」などの話がつまっているのです。

そういうのを涙を流しながら読んだわけなのですけれども。

それを再読しろというので、読んだのです。

そうしたら、あまりにもくだらなすぎて読めないわけです。

そのとき思ったことは2つのことだったのです。

1つは、あのとき読んでおいてよかった、あのとき十分に涙を流せてよかった、とつくづくそう思いました。

それから、2番目に、自分はまだ鋭い感受性を持っていると思ったけど、やはり多くのものを失ってしまったのだな、という2つの思いを感じたのを覚えております。

小学校のときにそのような情緒をきちんと教えるのは大切だと思います。

総合学習への疑問

もちろん、先ほど英語がよくないと言ったことと同時に、パソコンも同じことです。

パソコンを小学生に教える必要はまったくありません。

高校は今義務教育の最終段階に近いですから、96 パーセントの進学率です。

高校では教えてほしいですね。

でも、大学に行く人は教える必要はないですね。

全く必要がありません。

ある私の学生の結婚式に出たら、そこにあるパソコンメーカーのコンピュータやさんがいまして、「お茶大の数学では、純粋数学しか教えてなくて、全然コンピュータを教えていなくてお茶大の教育は本当にいいのでしょうか。」

というので、

「全く構いませんよ。

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コンピュータのコの字も知らなくて結構です。

きちんと皆さん大学で勉強されて、論理的思考を身につけてくれればそれでもうそれでいいのです。

コンピュータなら大学をでてからすぐに、そういう下地がある人は伸びます。

ましてや、小学校でするということは、コンビュータの専門家にとっては、全員が不思議がっていますね。

どうして小学校から入れるのだろうか。

しかし、今は入る勢いで進んでいますね。

異文化理解等も同じですね。

例えば、小学校のうちに黒人と握手をさせよう、

そうすれば人種偏見がなくなるのではないか、というようなことを聞いたりしますけれども、それでもしなくなるのなら、アメリカから人種偏見はとっくになくなっているはずです。

人種問題は解決しているはずですね。

そういう生易しい問題ではないわけですね。

環境問題もそうですね。

環境問題がこれからの 21 世紀の最重要テーマだから、という考えですね。

しかし、一番最初に申し上げたように、重要であるからカリキュラムに入れるというのはとんでもない過ちですね。

そういう意味で、総合学習ということには、全面的に私は反対です。

しかし、反対している人はほとんど日本人にはいないのですね。

というのは、どれも全部一番重要なことですね。

従って、例えば英語に関しても、父兄の統計をとると、ほとんどの人が賛成なのです。

自分がしゃべれないのは小学校で英語を習わなかったからだと思っている。

あるいは、とんでもない大間違いで、中学校以降の英語の先生の教育が全くなっていないからだとかです。

英語学者が英語教育の過ちを苦として、そのように小学校で習わないからと感じて、導入しようとするのはとんでもない行為だと思います。

私は中学校から英語を習い始めて、何の不都合もない。

数学の場合もそれは同じです。

実践国家としてのアメリカ

このような教育改革というのがどんどん行われている一つの大きな理由は、アメリカ化現象なのですね。

憂うべきアメリカが日本を完全に凍りつけています。

日本の学識経験者たちの多くが、日本のリーダーたちが、アメリカコンプレックスなのです。

なぜかというと、その人たちの多くは、特に理系の人は、1950 年代から 1960 年代前半までにアメリカに行っている人たちなのです。

留学という形で、向こうの大学院に行ったり、研究所に行ったり。

そのころの彼我の落差はすごかったのですね。

日本ではない冷蔵庫があるし、それからこちらはラジオ、向こうはテレビ、こちらは車が全然ない時代にアメリカでは一家に車2、3台、水が出てくる蛇口しかないのに、向こうはお湯が出てくる、そういうようなものを見て、とにかくアメリカ一辺倒になってしまったわけです。

このアメリカ一辺倒というのは、非常に危険である。

これは但し日本だけではなくて、ヨーロッパもそうですね。

今のEC騒ぎなども完全に間違った道を歩いている。

ヨーロッパを合衆国化しようという、あれはドイツ、フランス、イギリスを含めて、指導者に責任があると思います。

もちろん、結果はもう見えているわけですけれども。

アメリカはいいのですね。

アメリカは移民の国ですから、あれをどんどんやってほしいのですけれども、他の歴史ある国が自分たちの文化とか伝統をかなぐり捨てて、アメリカのまねをすると、絶対にうまくいかないというのが目に見えています。

例えば、アメリカは 10 数年前にこういうことを考えています。

アメリカの国民はすべてタイプライターが必要である。

これは確かなのですね。

今はどうかわかりませんが、10数年前にアメリカでタイプを打たない人間はいないのです。

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従って、高校の英語の時間にタイプライターを教えたのです。

そうしたら、何年かしたら、陸軍の新兵さんの 20 パーセントが機関銃の取扱書が読めなくなってしまったのです。

それで、国防省が驚いて、『危機に立つ国家』という本を出しました。

それで、タイプライターは英語の時間から追い出されてしまったのです。

アメリカではいつもそういうように、非常に頭のいい人々がよく熟慮している。

論理的にいいと思ったら、それを直ちに実行する。

だめなら直ちに撤廃する、それがアメリカです。

現在、アメリカの小中学校の1万8千校は株式当主、この株式当主法というのは、本当にお金を出しているのではなくて、小学生などが、例えばキャノンならキャノンの株を千株買っておいて、3ヶ月後にどちらが勝つか勝負するなど、そういうことによって資本主義社会に生きていくアメリカ人にとって、必須の経済意識を得ることができる。

子どもの社会とか経済に対する目を開かせることができる。

それを頭のいい人たちが考えているわけですから、いろいろいい意見がありますね。

こういうことをやっていますが、これは数年後に必ずまた撤廃されます。

これが、しばらくして、世界のいろいろな国際的教育到達テストなどがありますが、アメリカの生徒が算数とか国語でまた芳しくない成績をとるわけです。

要するに、基礎力の低下を免れないわけです。

アメリカというのは常にこのように実践国家ですから、実験を繰り返します。

いいと思ったら、実行して、それが何年かして悪かったらやめるというふうです。

ところが、このやり方を日本はまねをしてはいけないのです。

というのは、アメリカはそれができる世界で唯一の国なのです。

大きな実験をして、失敗したらやめられる国はアメリカしかないのですね。

日本とかヨーロッパの国々は大きな失敗をしたら、もうそれでだめなのですね。

非常にダメージが大きいわけです。

アメリカだけはどうしてだめではないかというと、アメリカをアメリカたらしめているところは何かというと、自由でも平等でも何でもないですね。

アメリカは自由でも平等でもない。

アメリカをアメリカたらしめているところは、富なのですね。類いまれな富ですね。

あれだけの大きな国土、肥沃な大地、それから天然資源、あらゆる点ですばらしいを神から授かった国です。

あのような国では、多少の失敗で国民が飢え死にすることはないわけです。

それから、多少国民のレベルが下がって、今でも小中学校はほとんど破局的になっていますが、それでもアメリカは転ばないのです。

なぜかというと、トップエリートたちが次々に世界から集まってきます。

アメリカの富を狙ってです。完全な実力社会ですから、外国の人たちが来るのにはもってこいです。

イギリスからもどんどん学生たちがアメリカに今でも流出しています。

日本からもたくさん行っています。

世界中から多くの人たちが行っているわけです。

従って、アメリカはなかなか疲弊しないわけです。

そういう非常に特殊な構造で、他の国はとてもまねできない。

従って、アメリカのように、論理的に一生懸命考えて、これがいいからやろうということは困るのです。

だから、さっき言った総合学習というのは、全部論理的にいいことなのですね。

しかし、それをやってしまうと、大変なことになってしまう。

日本の個性を大切にする日本の場合、どうしたらいいかというと、やはり日本は伝統国家ですね。

 

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伝統国家の良さというのは何かというと、例えば、初等教育では「読み書き算盤」というものが昔から寺子屋の時代からあったわけです。

国語と算数が一番大事だよ、ということですが、そこをやはり、きちんと崩してはいけないわけです。

でないと、これからもありとあらゆるすばらしいアイデアが出てきますね。

先ほどの「株式当主法」もすばらしいアイデアです。

「タイプライター」もそうでした。

それからまた、パソコンや英語も全部すばらしいアイデアです。

このように、どんどん出てきます。

しかし、そういうのはほとんど考慮する価値もないことなのです。

これからどんないいアイデアがでてきても、少なくとも、国語に食い入るようなアイデアは全部だめである。

私は国語をそうやって守らないと守りきれないだろうと思うわけです。

アメリカのまねをしてはいけないということですね。

いわば、その伝統のある文化の形というものをもっているわけですから、その形を大事にするということですね。

そういう意味で、一国には一国の個性というものがあるわけですね、日本には日本の個性、ドイツにはドイツの。

タイにはタイの個性があるわけです。

そして、そこに住む人々の胸にそのような個性というか、固有の情緒というものが古来から脈打ってきているわけです。

そのような情緒とか、学校教育からの接点というのが、まさに国語である。

小学校においては、何をさておき、その情緒を植え付けなければならないと思うわけです。従って、私は国語は言語的な側面に絞るべきである、技術的な側面に縛るべきであるという議論はとんでもない誤りだと思います。

そのようなことをいう人は国語の敵なわけですね。

というのは、それを強調している限りは必ず国語は没落する、必ず英語との差がつかなくなってしまうのです。

私たちが学生のころは、ドイツ語もフランス語もありましたけれども、今はもう完全に英語の一人勝ちになってしまいました。

この世界にあって、どんどん、どんどん、英語が出てくる。支配的になってくる。

そこで、やはり国語、日本語が土に落ちていっているような、それは国家が土に落ちていっているのと同じことですけれども、そのためには国語、言語技術の問題に絞っている場合、非常に悪い、不利な、自らを滅ぼすような選択であるとそういうふうに思うわけです。やはり、情緒との接点です。

それを国語で強調していかないと、他の学科で肩代わりできないのです。

従って、その国語教育を通して、郷土とか祖国への誇りとか、あるいは、先ほど言った美しいものに対する感受性感動、この美に対する感動力というのは理系の学問をする上で、特に数学などでは最も重要なものです。

それから「もののあはれ」です。

これは、世界に誇りうる最もすばらしい情緒です。

あるいは、他人の不幸への敏感さですとか、あるいは懐かしさですとか、あるいは卑怯を憎む心ですとか、これは、武士道精神のいっているところです。

こういうのを教えないと、いじめなどが起きるわけですね。例えば、武士道精神で卑怯を憎む心というのはどういうものかというと、例えば、大勢で一人を殴ることはよくないなどです。

これはどうしてか、と問われれば、誰も論理的に答えることはできないわけです。しかし、それは卑怯なわけです。

理由はなく卑怯だ、それが日本人の考え方です。

あるいは、大きい者が小さい者を殴ることも卑怯なのです。

これも理由はありません。

小さい者が悪いことをしたから殴ってもいいのではないか、というのは論理ですね。

そうではなくて、とにかく、大きい人は小さい人を殴ってはいけないのですね。大勢で一人を殴ってもいけない、あるいは、男が女を殴ってはいけない、そういうようなとにかく形です。

そういう形がある国はそういう形について教えなくてはいけないと思います。

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書かせること話させることこのような形等を何の時間で教えるかというと、やはり国語あるいは大きな意味での国語の時間に、それは倫理とか道徳とかそれらを含めた全教科でも、大きな意味での国語です。

そういう意味では、読書とか作文とか特に最近そういうものが廃れてきているのは非常に残念です。

そういうものへの期待は非常に大きいのです。

例えば、先ほどから情緒のことしかいっていませんけれども、論理的思考力というのもやはりそれを育てるのには国語が一番なのです。

数学とか算数をやると、論理的思考力が身につく、これは文部省が言っています、あるいは数学者も言っていますけれども、これは全部大嘘ですね。

それが証拠に、教授会で数学者のいうことは全然論理的ではないですね。

いつもエキセントリックな様子で情緒的なことを言っているわけです。

それで、皆から鼻つまみ者になるわけですけれども。

一番論理的な思考力を養成するのによい方法は、書かせること、それから話させることですね。

それは、論理的なことばの応酬としての理論、論理的ことばを表現する作文です。そういう意味で論理的思考の訓練には作文が一番いい。

数学は確かに論理は使いますが、数学における論理というのは、我々が普通に使う論理とはかけ離れているので、全く役に立たないのです。

従って、国語において、論理的思考を養うのが一番よい

そういうことを言うと、数学者の人たちは皆、自分たちのテリトリーがなくなってしまうではないかということで嫌がるのですけれども。

しかし、論理的思考に関しては、数学には全く別のよく考える喜びを育てるですとか、他の重要なことがあるのです。

明治の頃の国際人このようなことを通して、先ほどの国際人ということにも貢献するわけです。明治維新のころ、多くの日本人が欧米等に行っているわけです。

下級武士、上級武士、あるいは大工の棟梁に至るまで。

そして、その人たちが皆尊敬されて帰ってくるわけです。

今の商社マン等は外国に行っても、羨望はされるけれども、尊敬はされないのですね。どこが違うかというと、もちろん英語力は今の人の方が上ですね。

外国の歴史や地理も今の人の方が上ですね。

当時の人の持っていたものは何かというと、その人たちの多くは英語が話せないですね、となると持っているものは、単に日本の古典ですとか、漢籍です。

そのような教養と、武士道精神、それぐらいですね。

それで、非常に皆から尊敬をされ、感銘を与えたわけですね。

そういうものから、品格とか情緒力が重要だということがわかります。

これは、明治に限らず、1582 年には天正の少年使節がヨーロッパに行くわけです。

10 代の少年たちが向こうに行って、非常に人々を感激させたわけですね。

伝道に携わるご婦人方が涙を流して見送ったという、そのような立派な品格ですとか、礼法、そういうものに感動したわけです。

そういうふうに、古典とか漢籍などそのような教養でも世界に通じるわけです。

21 世紀の課題??
国語の充実?

最近の大学生をみていると、国語力の低下が著しいですね。

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それと同時に、思考力の低下、それから情緒力の低下、その3つが3拍子揃って全部低下していますね。

ですが、私に言わせると、国語力低下、思考力低下、情緒力低下というのは、全部同根である。

これは、一つには戦前に比べて、3,4割国語の時間が減らされているからです。

例えば、大正7年には、小学校4年生で週 14 時間ありました。

それが、昭和 15 年には 12 時間になり、2時間減らされました。それが、今では小学校で6,7時間に減らされています。

そのように、ほとんど半減近く大正と比較して減らされていますし、戦前の昭和に比べても3,4割減らされています。

そういう国語時間数にも責任の一環はあると思います。

もちろん、国語の教え方等も改革する意見はずいぶんありますが、私に言わせると、やはり21 世紀の教員というものを考える場合に、非常に地味なのですけれども、国語の特に初等課程おける国語の飛躍的充実、それが 21 世紀の最もすばらしい与件になるのではないかと思います。以上です。

 

藤原正彦先生との話し合い

日本語が受ける影響

柳澤??

 

私がアメリカで日本語を教えたときに、アメリカの大学院生で日本語を勉強するクラスというのは、実は彼らにとってアジアというと中国であり、中国の研究の延長線上として、中国関係の資料を読むためなどの目的で日本語を勉強しています。

彼らは中国語はわかりますし、それから日本語も中国のことを知るために日本語で書かれた古い文献を読むために古典語から勉強しています。

彼らにとって、現代日本語はかなりあいまいだと言います。

一方、日本語だけを勉強している人がいます。

彼らが1年生に入ってくると、彼らは現代日本語から入っているものですから、古典日本語の学習で困ってしまう。

この違いの一つに語彙量と意味機能や用法の違いがあります。

表現の豊かさの違いが、古典日本語と現代日本語とでかなり違いがあるようです。

そこで、藤原先生にお尋ねしたいのですが、「感受性の中での国語」ということが一つの大きなポイントだと思います。

国語としての日本語に幅広さがあると思います。

藤原??

幅広さというのは。

柳澤??

語彙にも、表現力にも、言語そのものやその形式の捉え方にも幅広いものが時代や地域などによって存在すると思います。

藤原??

それは、確かにその国の情緒力によって、言語は影響を受けておりますね。

例えば、日本ですと、「雨」に関することばがたくさんあります。

「五月雨」や「梅雨」、「にわか雨」だとかたくさんありますね。

しかし、英語などではそれはないですね。

エスキモーにきくと、「雪」に関する表現が何十種類もあるらしいです。

日本は「粉雪」とか「ぼた雪」とかいくつかしかないと思います。

あるいは、インドに行くと、「牛」の表現がい

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ろいろありますね。

そういう意味で、現在の日本語が彼らとして勉強しにくいというのは、仕方がないことです。

柳澤??

一つの語彙でいろいろなものを表す、あるいは一つの語彙をくっつけて別のことを表すなど、言語がその国の社会状態を示します。

言語が、社会と密着しているということです。

学校教育の中でのことばの取り扱いは、ことばを通して社会状況を受ける部分と、ある部分から社会をうかがうという部分との二つを持つのではないかと思うのです。

藤原??

それは、難しいことですね。

国語審議会などでも「ら抜き」などいろいろ言われていますけれども、要するに、古来の日本語の文法が日本語を規定するのか、日本語が文法を規定するのかという問題ですね。そこのところは、結論的にどちらとも言えないと思うのです。

しかし、現行の日本語にすべてどんどんいってしまうと、日本語はどんどん汚く悪くなります。

そこの部分の兼ね合いが非常に重要ではないかなと思います。

ですから、一方にそれでは日本語がおかしいという意見になるわけです。

しかし、教育の場合においては、やはり正しい日本語を教えていかないと。

というのはやはり、流行りことばというのはどうせ5年から 10 年で廃れていくわけです。私もアメリカにいたときに、アメリカのスラングをすごく興味を持って、いろいろ書いたり覚えたりしましたけれども、今、誰もそういうことばは使わないですね。

時々使うと、笑われてしまうのですが。

日本語もそうですね。

例えば、私の子どものころには「ああ、頭にきた」などと言っていたけれども、最近、小学生の子どもに「頭にきた」などと言っても誰にもわからないのですね。

従って、なるべく基本となる、きちんとした正しい文法ときちんとした日本語を教えていく、と理解していただいたらどうでしょうか。

小学校の中で感受力をどう育てるか

氏原??

先生のお話をお伺いしまして、皆さん同じだと思うのですけれども、非常に感動いたしました。

いろいろなことをお話したい気がするのですけれども、一つは、私も高等学校の教員をやっていまして、例えば、私が高校時代に初めて「山月記」を読んで大変なショックを受けて、その夜は寝るのが怖かった、目が覚めると自分が虎になっているのではないかと思って、夜眠れなかった、というような話を生徒にするわけです。

そうすると、冗談だと思って皆笑っているわけですね。

何となく冗談だと思って笑っているだけなのだろうと最初は思っていたのですけれども、だんだん、先生のおっしゃるところの情緒力、私は感受力と呼んでいるのですが、そういうところに、非常に問題があるのではないかと思うようになってきました。

つまり、直感的にその作品の持っている本質的なものを全体的につかんでしまう、という能力というか、そういう意味での直感的な感情というか、情緒的な感情というか、そういうものがどうも十分に育てられていないのではないか。

そうなると、先ほどの先生のお話で 21 世紀の国語、21 世紀の教育というものを考えたときに、小学校の国語教育の飛躍的な充実が鍵となるだろう、ということをおっしゃいましたが、その中身というのは先生がおっしゃったように、情緒的感情というものを果たして小学校の国語教育の中で育てることができるのかどうかが決定的な意味を持つわけです。

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私が今「山月記」について話をしたのは、よく言われる話ですけれども、能力には学校教育で育てられる部分と、それ以前の家庭とか、環境の中で育てられる部分とがあると思うのですが、この情緒力を小学校の教育の中で、どうやったらうまく育てることができるのかが気になってしまうのです。

子どもは小学校に上がる前にすでにもう、ある程度形作られている部分もあって、そういった情緒力のような大切な能力を小学校の教育の中で本当に保障できるのかどうか、ということをすごく感じるのです。

それからもう一つは、先生のお話で実は論理的思考力というものを国語教育で担う、ということで、私もそうだと思っていますし、またそうありたいと思っているのですが、実はその論理的思考力そのものも、先生のおっしゃるところの情緒力というのと関連していると思うのです。

それがないと、本当の意味で論理的思考力というのは育たないのではないかな、という気がしているのです。

というのは、日常生活における論理的な思考というのは、むしろ1から順番に、1があるから2があって、2があるから3があってという、さっきの先生のお話で言えば、AからZまでつながっていくわけですけれども、そのAからZまでつながっていくのに、いちいちものを捉えていくのではなくて、AからZまでの全体を瞬間的に捉えて、Zにいってしまうみたいなですね、Zにいってしまった後で、実は分析していけば、その間にBがあり、Cがあり、Dがあり、Eがあり、Fがありということになると思うのですけれども……。能力の在り方としては、むしろ、AからそのままZを直感的に掴んでしまうような気がします。

ですから、情緒的感受力と論理的思考力とは密接に絡んでいるということですね、私はそう思っているのですけれども、先生のお考えではその辺いかがでしょうか。

藤原??

最初の方の小学校に上がる前から、もうかなり規定されてしまっている、というのは確かなのですね。

それを子どもに投げかける、教育はすべてそうですね。

いかなる小さな問題も大きな問題も全部一箇所、要するにこんがらがった糸と同じで、一部分だけほぐしても、それは全体としてはほぐれないのですね。

しかし、例えば、小学校に上がる前の幼稚園で4つか5つぐらいのときに、お母さんと夕方買い物に行ったとします。

そして、帰り道に夕焼けがきれいだった。

お母さんは、立ち止まって「あら、きれいな夕焼けだわ」と嘆息しないといけないわけですね。

そうすることによって、夕焼けというものは美しいのだ、そういう美しいという気持ちが感動力という中にそこで養われるのですね。

私たちの美しいものに対する感動力とか感受性というものは、自然に生まれる性質を持っているものではないと思うのですね。

教育によって、だんだんと培われるものなのですね。

例えば、美しい音楽を聞いて感動する、これも一つですね。

例えば、ベートーベンでもモーツァルトでも、30 歳になって聞かせたら、何の感動もしなくなるのですね。

やはり、そういう環境に置かないと。

そういう意味で、美しいものに対する感動力、あるいは不幸な者に対する敏感さなども含めて、やはり親が子に教えるのが一番大きなことなのですね。

先ほど言った、貧困というのがありましたが、現在そういうことはなくなったけれども、やはり依然として、家庭教育が一番なのですね。

大きなことですね。

私が国語に一番期待するというのは、学校教科の中では国語以外の教科には期待できないだろうということなのです。

数学、算数や理科や社会や体育には、小学校においては期待できない。

やはり、国語に一番期待されると感じるわけです。そういう意味で、小学校においては、情緒教育が非常に国語で担っているわけです。

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ですから、家庭教育ですとか、社会ですとか、あるいは他にも自然に親しむ教育です。現場の中に入っていくと、春になると芽がふいて命が生まれる、秋になると虫が死んで、葉が落ちてだとか、そういうふうに自然の中には生と死というものがありますね。

ほとんどの人間の大きな情緒というのは死と裏腹になっていますから、要するに、有限時間の後に我々ここにいる人すべてが朽ち果てる。

そういうふうな意識というのが人間の一番深い感情と直接関わっています。

ですから、山に行って、そういうような動物、それから生死を見る、あるいは悠久な自然と人との対比を見る、そういうことによって、非常に良い情緒教育ができます。

しかし、そういうことの他に、学校においては、ということですけれども。

それから、第二の点に関しては、AとZだけ言っても、他の人は誰も納得しません。従って、説得の技術の手段として、B、C、Dを入れて、「ほら、どうだ。何かあるか。」と。

数学もそうです。

数学においても、我々は何か数学の新しい定理を作るときには、結論と最初を全部、または結論をいきなり見てしまうのです。

それから、委曲をこしらえるのです。

その力がないとだめなのですね。

従って、そういう意味で、論理と同一力の関係というのは、本当は矢印でいくというのは説明上で、本当はA=Zなのですね。AとZは同一形であるという同一力が必要なのです。21 世紀に必要な情緒力

今度 21 世紀になると、ある意味で、情報量の爆発的増大ということがあります。

そうなってくると、ものすごい情報量になって、その中で溺れてしまうのですね。

現在でも、人間の多くの人が溺れています。

子どもも大人もです。

子どもが溺れているという前に、大人自身も溺れています。

そのときに、いちいち色々なものを論理的に考えて吟味してこれを取ろう、これを捨てよう、というわけにはいかない時代になるのです。

やはり、一刀両断のもとに、情緒力でぱっ、ぱっと切り捨てると、それが非常に重要な能力なのです。

それは現在、我々が教育の日常、何を託するべく託されているかということですね。

論理的に正しいことというのは、この世の中にごろごろあるわけです。

何を考えてもごろごろしています。

例えば、これからのカリキュラムをどうするか、これも論理的にいいますと、中教審のいっていることは正しいこと、これも正しい、あれも正しい。

その中からどれを選ぶか、そこで、その人の人間の真骨頂なのです。

能力ですね。

どれを選ぶか

それで、今まさにAとZをどれを選ぶか。

全部論理的には正しいのです。

その中からどれを選ぶか。

それがその人の情緒力であり、全人間的なパワーなのですね。

それによって、その人の価値判断をされてしまうのです。

その力をつけるためには、どうしてもさっき言ったような情緒というものがないとこれを選ぶ力はないのだと、それに一番重要なのだということですね。

教材と教師

???

小学校の国語教育を考えたいのです。

第一は教科書を中心とした教材の面、そして第二は、教師教育のことでお伺いしたいのです。

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?まず教科書ですが、小学校でも中学校でも教材というと、どうしても教科書というのが大きな影響を持った中心教材になります。

ただ、教科書の場合、例えば、先生がおっしゃった、郷土の問題、郷土の教材というのも掲載されていないことはないでしょうが、どうしても不十分です。

なぜなら、全国画一的な共通の教科書が出版所から作られるからです。

郷土教材の問題は一例であります。

他の種類の教材においても、複数の教科書出版会社があるにもかかわらず、比較的画一的な教材選択がされています。

そのような状況に対して、先生からご覧になって、例えば小学校の教材で、こういう種類の教材がもっとあるべきだ、必要なのではないか、というような点がもしございましたら、教えていただきたいと思います。

第二は、教師の問題です。

我々も国語の重要性というのは常々認識しているつもりです。

そして、国語力という点で、子どもたちが影響されるところに教科書と教師があると思います。

先生がおっしゃるように、小学校では圧倒的に国語の時間が多いのです。

特に、小学校低学年だと全体の3分の1以上の授業が、国語の授業に充てられます。

しかし、教員養成学部の小学校教員養成課程ですと、国語も図工も音楽も全部同じ単位数なのです。小学校での授業時数の少ない教科も多い教科も、均一均等に修得単位が設定されています。

しかし、教壇に立つと、この圧倒的に授業時数の多い国語を一番長い時間指導するわけです。

こういう制約のもとで、国語の教師養成がかなり窮屈になっています。

それでもその中で、我々はいろいろと試行錯誤をしています。

小学校の教師を育てるにあたって、先生からご覧になって、こういう点だけは学生に身につけさせておいたらよいのではないか、というような点がございましたら、お教えいただきたいのです。

藤原??

第一の点と教科書の方で、郷土愛を育てるというのは徹底しているわけなのですね。

しかし、国の教科書ではなかなか育てるのが難しい場合には、郷土によっては、副読本のようなものを、国語の時間が全部郷土のものでは困るので、増やしてもらって、郷土のことをいろいろ学ぶのです。

それで、郷土に対する愛情を深める

それがないと、世界の人に全然相手にしてもらえないのですね。

日本人で日本を愛さない人間というのは、外に出て全然通用しない。

あるいは、よく学生などにいうと、郷土を愛するとか、国を愛するとかそういうような感情を持っていると、戦争の原因になるというようなことをいうのですが、私から見ると、愛情意識を持っていない人がまさに戦争を起こす人だと思います。

国を本当に愛することができる人は、他国の人々の同じような気持ちを理解することができるのですね。

例えば、中国から中国人で中国を愛する人がいる。

朝鮮人が朝鮮を愛すべき感情、ドイツ人がドイツを愛する感情、これは皆よくわかりますから、とても残酷な侵略を起こす気にはならない。

人間が家族を愛する、友達を愛する、郷土を愛する、国を愛する、人間にとってそれがないと話にならないのですね。

そういう意味で昔の愛国的という意味ではなくて、真の意味で愛するということです。そういうのが郷土愛です。

昔は太平洋戦争に大々的に突入するような軍国主義的な要素が多すぎたのでそれに対してのわだかまりがありますが、そういうものではないのです。

やはり、日本の美しさとかすばらしい文化があるわけですから、そういうものを教える手だてを考えるわけです。

それには、副読本でそういうことを教えればよいわけです。

教科書の内容については、私はよく検討したことがないのですけれども。

2番目の教師の養成の方は、国語に限らず理科も算数も全部が今、大問題です。

 

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これは、本当に改革しなければいけないものです。

これは、また、さっきと同じように、こんがらがった糸が一つで、これからもすごく大変です。

要するに、ある意味で、大学の先生の教え方を比較して日本の先生が飛び抜けてへたなのです。

日本人よりアメリカ人の方が圧倒的に講義の仕方がうまいですね。

一般的に言って、アメリカ人よりフランス人の方がもっとうまいのです。

イギリス人はあまりうまくないのですけれども。

そういうような講義のうまさだとかいうものは、一国の言語操作にかなり根ざしているのです。

例えば、日本では、べらべらしゃべるやつは軽薄だとか、いろいろと言われますけれども、それよりも腹芸だとか、あうんの呼吸というものが重要視されるのです。

寡黙な人ほど重厚だと思われるわけです。

そういうような国民では、講義だけうまくといっても、なかなか日本人では難しいですね。それと、同じことが、先生にとって非常に重要なことはやはり、魅力的なパーソナリティーということです。

これを言ってしまうとおしまいだと言われてしまうのです。

数学教育学会に行っても、「数学が嫌われるのは、数学の先生のパーソナリティーが魅力的ではないからだ」と私は言ってしまうのです。

しかし、それを言ってはおしまいだ、といわれてしまうのですが、実際そうなのですね。国語もだんだん高等学校高学年になるにつれて、嫌われてくる。

それはやはり、先生のパーソナリティーということ、国語の先生というのかもしれませんが、先生自身のパーソナリティーです。

そういう意味で、学校の先生というのは、非常に多くの点で資質を必要とする職業なのです。

大学の先生などでは、学問を教えているのだったら楽ですけれども、人間的な魅力というのはそう簡単に誰にでも備わっているものではありません。

そういう意味で、現在の国語科に限らず、先生養成システム、それ自身が全面的に改められなければならないわけですね。

今、例えば、国語なら国語で国語科教育法とか、いろいろ技術的なことを、こういうものをこういう順序で教えるといいですとか、それから数学でも理科でも皆行われています。しかし、どうしてもうまくいかない。

それは、やはり先生のパーソナリティ、そういうような部分への大学側の配慮というか、育てる側の認識ががまだ薄いのではないか、と思うわけです。ことのところは、そういうところでやはりきまってしまうのです。

例えば、国語の先生が、よく作文を書かせる、そして結局は励ますかどうかです。

いい点、一行見つけて、それを励ませるかどうか。

それで、その子が作文を好きになるかどうかは決まってしまうわけです。

しかし、いいところを見つけて励ますというのは、先生にとって、大変な能力なのです。へたな作文では少しいいところを見つけるだけでも大変なわけです。

それで、励ますというのはとても大変な能力です。

そういうようなパーソナリティーをもっと重要視したような教員養成にしないと。小学校の段階ではなくて、大学の養成システムの段階の問題ですね。

例えば、国語ですと毎年、同じ文章を読ませなくてはいけませんけれども、数学ですと「ピタゴラスの定理」というのがあります。

数学の先生にいうと、私がいつか、ピタゴラスの定理で、直角三角形のこの辺の2乗+この辺の2乗=斜辺の2乗というのがありますよね。

ああいうのはどういう定理なのだ、どこに地球上にとても大きい直角三角形を書いても、小さな顕微鏡で三角形を書いても、同じように成り立っている。

あるいは、三角形の内角の和は 180 度であるが、どのような平べったい三角形を書こうと、とんがった三角形を書こうと、大きな三角形、小さな三角形、何を書いても 180 度になる。寸分違わず

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180 度になる。

これは論理的な理学なのである。

そういって、先生が感動して驚いてみせなければいけない、そのように言ったら、終わった後、教育系の大学の先生がいらして、「藤原先生、毎年毎年、そんなことは絶対できませんよ。」というのですね。

それはわかるけれども、それをできるか、できないかだけで先生としての資質だと思うのですね。そういったパフォーマンスはどうしても必要ですね。

そうしないと、生徒は単に平行線を引いて、証明して、

「ほら、三角形の内角の和は 180 度だよ。」

といったとしても、面白くも何ともないのですね。

そういう生徒から見て、魅力的なパーソナリティを育てる。

各教科のフレックス・ポイントですね。

国語に限らず全てですね。

大学教育で情緒力を身につけることは可能か

氏原??

今の安さんのお話の教員養成にかかわることですが、例えば小学校の先生が国語を教える場合と、当然先生に求められる資質の大きな要素として、まず、先生のおっしゃるところの情緒力、それから、もちろん論理的思考力があるわけです。

そういったものをその先生自身が持っていなければいけないわけですね。

持っていなければ、そういう視点がないから、当然子どもたちに指導するということもないと思います。

あるいは自分が意識すればこそ、子どもたちにどうやって指導していくかという手がかりを見つけようということになっていくわけですから、そういうことを先生自身が身につけていなければならない。

そこが非常に難しいと思うのですけれでも。

先ほどから小学校の低学年ぐらいからということで話がずっと流れてきているのですが、そのような機会がないまま、あまりそういった力が身につかなかった人が、例えば大学生ぐらいになって、教員養成という中で、そういった力を身につけることはできるのか、どうか。

子どもたちの今後のことを考えると、このような力が必須の力だとすれば、例えば大学生ぐらいになってからの3年なり、4年なりでそういった力を身につけられるのかが大きな問題だと思います。

教員養成課程を出て、実際に教員になる先生方がそういう力を是非もってほしいわけですよね。

つまり、そういう人たちが大学教育の中で、情緒力を身につけることが藤原先生は可能だと思われますか。

そのあたりをお聞きしたいと思うのですが。

藤原??

そういう意味で、少し手遅れかな、という感じがするのです。

やはり、そこでさっき言った「早く読まないと大人になっちゃう」というのがそうなのですね。

大人になってしまうと、もうだめなのです。

それが、人間的なパーソナリチィーの問題だけではなく、学問的にもそうです。

例えば、1年ちょっと私がある大学で教えていたときに、ある時オックスフォード大学から講演をしてくれというので、オックスフォード大学に行ったのです。

講演といっても数学の講演ですけれども。

そのあと、先生方とお茶を飲んでいたら、向こうの方に小さな女の子がお茶を飲んでいるのです。

「あの方は誰かのお嬢さんですか」

と聞きましたら、

「あれは、今 14 歳でドクター論文を書いているのです。」

という答えで、よく話を聞きましたら、ロイス=ローレンスという有名な天才だったのです。

その子は、オックスフォード大学に入ったのが 11 歳だったのです。

そして、16 歳でドクターを取っているのです。

17 歳でハーバード大学の講師になっているのです。

そのようにすべて世界新記録なのですね。結局、その子はどのような生活をしていたかというと、4歳か5歳のときに、お父さんがコンピュータ技士だったのですけれども、ロイスが天才だと確信して、もうこの子はすべてを捨てて数学にかけよう、ということで数学ばかりやったのです。

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自分は会社を辞めてその子と一緒に中学、高校、皆2年ずつぐらいで飛んでいくわけです。そして、11 歳のときに大学に入ったのです。

シンポジウムとか学会をやるのです。

それで、結局はそうして今 25 歳ぐらいなのです。

今、一言で言うと伸び悩んでいるのです。

結局、その子は5歳ぐらいに父親が気づいたときから、算数、数学しかやってきていないのです。

従って、その間に、例えば、幼稚園のころにその辺の子たちと砂場で遊んだり、あるいは友達と野山を走り回るですとか、小説を読んで涙を流すですとか、初恋や失恋をするですとか、そういうことを全部飛ばしているわけです。

お父さんと2人で数学一筋できたわけです。

それで、その分野の学問の努力と才能による一番トップの地位にまではきたのですが、そこから後は、その方向に向くかどうか、天上を上に行くかどうかです。

そこで初めて、さっき言った情緒力が試されるのです。

それで今迷ってしまっているのです。

従って、そういう意味で、子どものとき、特に小学校ぐらいまでに、生まれてきたときからでいいのですけれども、まず小学校ではそういうことはやりませんから、その間に一生懸命情緒力をつけて、そして大学出てからの勝負です。

それに、勝つような人間に育てなければいけないのです。

ですけれども、母親などはそのような長丁場のことは考えられませんから、目先の受験に惑わされてしまいますけれども、大学を出てから一般の大人になってからの勝負というのは先ほど言った情緒力が大切なわけです。

情緒力が結局総合判断力の基盤ですから、そこで決まるわけですからね。

それは、学問においても最後の関門を突破する機会というのは情緒力ですから、そういうものを育てることが大切です。

従って、「早く読まないと大人になっちゃう」という通りに小学校か中学校までに教えておかないと。

?その点では、教員養成に関しても、大学にくるとかなりあれですけれども、まだ感受性が強ければ関係ないですね。

一生懸命やれば、まだまだ。

何と言いますか、まだ、今の子どもは大学生でもすごく子どもっぽいですから。

そして、受験勉強をしているということは、頭を使っていないということですから。

頭をただ機械的に回転させているだけで、本格的に使っていないですから、従って、大学に行ってから訓練をしてあげれば、かなり変わってくる可能性はありますね。

そこはまた、大学の先生の腕の見せどことですけれども。

先生自身もそこで、情緒力が試されればいいのです。

道徳教育

野村??

道徳という科目についてのお考えをお伺いしたいと思います。

というのは、自分自身が小学校で受けた授業を考えると、各教科それぞれから、いろいろな意味での情緒的側面の影響を受けていると思うのですが、その中に、道徳という科目がありました。

例えば、ヒメマスの養殖のために苦闘した和井内貞行と人生を描いた「十和田のヒメマス」という話を習って、それは今でも心に残っているのですが、似たような話が国語の教科書にも出てきたように記憶しています。

たぶん、国語ではことばの面から読み込んでいくということでしょうし、道徳で扱う場合にはその事柄自体について考えさせることが中心にあるのだと思います。

あるいは外国の作品で、たしか「あらそい」という題が付いていたと思いますが、学校で隣の席の子が誤って主人公の子のノートにインキをこぼしてしまったのに対して、主人公の子がわざと仕返しをし、喧嘩になって、結局相手の人間的包容力に救われるという話がありました。

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その「あらそい」や、ドーデーの「コルニーユ親方の秘密」などは、国語の時間に習ったか、道徳の時間に習ったか、記憶があいまいになっています。

いずれも、話の内容が強く胸に残っているわけです。

そこで、学校教育の枠組みの中で、国語と道徳の関係がどうあるべきかについて、お話を伺えればと思います。

それから、もう一つ、私の弟が中学校の美術の教師をしているのですが、自分の担任のクラスでは道徳も教えていて、現代の中学生にどんな道徳教育をしたらよいか、大変苦労しているわけです。

私は、例えばそのように美術を専攻してきた人であれば、その専門的な観点から情緒面の教育がいろいろできるだろうと思います。

藤原先生は、人間の情緒にかかわることをいろいろお話しくださったわけですが、それは国語科だけにかかわるのか、あるいは他教科への広がりが考えられるのか、ということについてもお話しいただければと思います。

藤原??

私が最近しゃべっていることに、広い意味での国語というのがありまして、それは、まさに道徳なども入っています。

今、教えている道徳という科目は我々のときには科目になかったのです。

ある意味では、国語に入っていたのです。

ですから、それを広義の国語として入れているのです。

今までのことはよくわかりませんが、もし学校でやっているとすれば、一つの情緒教育に当然なると思います。

一般に道徳という教育を考えた場合に難しいと思います。

なぜならば、ベルギーのある大学の先生が、日本では無信仰国家で、ある程度宗教がない国家である、大学の先生が宗教がなくてどうやって道徳教育ができるのか、というのですね。

欧米では道徳というのは、学校で教えるというよりも、牧師さんや神父さんという人たちが教会で教えるのです。

キリスト教という代表軸が一つなのですね。

そのような宗教がなくて、どうやって道徳教育を教えるのか。

しかし、アメリカを見ると、日本の方がはるかに道徳的に上のように見えると思う。

一部の人が笑っているのです。

一番多いのがキリスト教徒なのですけれども、アメリカに行って、キリスト教が現に国民全体に行われていれば、よほど、すばらしい穏やかで平安に満ちた国家だろうと思うのですが、アメリカは日本よりはるかに競争に満ちた、だましあいの社会なのです。

それでも、深く反省をする。

日本人は、道徳教育の他に武士道精神があった。

武士道精神は先ほど言ったように、今の若い子に武士道精神は悲しいことにききませんけれども、そうではなくて、武士道精神の根本に言っていることは、勇気だとか正義観とか、あるいは恥を知る心などですね。

そういうものが道徳教育になるわけです。

現在の日本というのは、もちろん無宗教ということにはほとんど異論はないのですが、武士道精神というのがあります。

それがどんどん落ちてきているのです。

従って、現在の日本はだめなことは何にもなくなっているのですね。それは日本だけのことではなく、ヨーロッパが同じ道をたどっているのです。

キリスト教の遮蔽性をどんどん暴いて、それでどんどん、無神論者が増えています。あれは、ヨーロッパがこれから、どんどん取っていく兆候なのですね。

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理屈ではない形を教えるやはり、人間というのは、この2世紀間、産業革命以来、18 世紀の後期以降、一体世界というのはどういう状態だったかというと、結局は幹部贔屓の大商人がいるのです。

それまでは、大学で一番重要なのは哲学だとか、神学だったのです。

しかし、この2世紀で神学の需要が落ち込みましたが、世界中どの大学に行っても、神学の教授は取りきれない。

何が代わりに台頭したかというと、科学です。

それの根にある論理的思考と合理性が世界を支配してきた。

ところが、人間というのは合理的とか論理的思考だけではうまくいかないのだ。

では、どうしたらいいのか、世界中が五里霧中なのです。

日本はそういうものを全部捨てました。

そして、ヨーロッパもどんどん、捨てる教育をしている。

そうすると、座標軸がない場合に、論理だとか合理というのは一体、何の教育だろうか。座標軸がなくて、合理精神だとか、論理的思考というのは単なる自己製造化の原理に他ならないのです。

従って、世界中がそうなってしまう。

そうして、道徳教育を考える場合には、今言ったような読み物を読ませるというのが一番無難なやり方です。

そして、それと同時にもう少し、日本の情緒、昔からある日本に2千年以上も前からあった土着のいろいろな価値観、倫理を全部含めたもの

それから、仏教とか禅です。それから儒教、神教とか、そういうものを全部含んだ武士道精神の中にはすごい思想がいくつもあるのです。

主君への忠義などを知っていれば、かなりまだ救われる部分があります。

そういうものをもう少し、啓蒙していければ、と思います。

全面的にそれを教えるのではなくても、例えば、卑怯というものを憎む心というような情緒は教えなくても大丈夫だと思うのです。

卑怯なことは罪だと憎むことです。

要するに、理屈でない形を教えるという、道徳の時間に日本の形を教えるだけでも、だいぶ違いますね。

そういうことは少し腰が引けて、無難にいうのを忘れているわけですけれども。

そうでもないなとわかると思います。

私は肯定的です。

そういう意味で、是非道徳の時間でも、現在においては情緒教育など、これからも担っていくべきですね。

それで、広義の意味で国語ということで、道徳教育も入っているわけです。

国語の教え方の問題

相澤??

国語科が担っていかなければならない内容が多岐にわたる中で、先生のお話を大変興味深く伺いました。

先生が先ほど取り上げられた国語に関する問題にはいろいろな理由や背景があると思うのです。

そこには、例えば、教え方の問題等もあるだろうと思います。

それについて一つお考えを聞かせていただきたいと思います。

藤原??

最初に、日本を 21 世紀に向けてどういうような国家にしていけるかどうかという言い方が適当かどうかわかりませんが、どういうような姿に行く行くはしていきたいかを考えていかないといけません。

国語における言語面あるいは技術面だけに脚光を浴びさせて、ということは結局はそれをやっていると、外国語特に英語において、力がつかなくなってしまうのです。

母国語というのは本質的には外国語と全く違うものです。

なぜ母国語とは非常に違うのかというと、さっき言ったように、情緒とかアイデンティティーということになるのです。従って、言語技術ということをハーバード大学やビジネススクールを出た人がそのようなことを言っているのではないかな、と思います。

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向こうではそういったディベートを中心とした弁論技術を上手に学んでいく。

ディベートというのは、日本ではある程度感性なのです。

あれは、確かに論理的思考の訓練としては数学よりはるかによいのです。

しかし、あれをあまりやりすぎると、アメリカの男性になってしまうのです。

ディベートの一番いいのではないかと私が思う点は、相手の審査を論理的に打ち破る、最大限に拡大一般化して相手の言うことを全否定する、これがディベートの指摘ですから、向こうの人々は全部これを習っていますから、そうはいっても、一向に負ける一方で勝ちませんけど。

そういうやり方で、これは日本の美徳に非常に反します

そして、そういうやり方は品のないやり方です。

従ってアメリカでしか進めないことですね。

まあ、インドやアラブでも進めますけども。

上品にやっていけば移りませんから。

そのような技術はそこそこにするべきで、あまり一生懸命にやらない方がいいですね。

国語嫌いにさせる原因

それから、2番目ですが、私も国語は大嫌いでした。

どうして嫌いかというと、一つは、言語的方面では文法事項が中学校になると、多くなりました。

私が現在しゃべっていることばは口文法が原型ですよね。

口文法でできているものを現代文法であまりやらされる部分にはかなり抵抗があって嫌いなのです。

それは、日本人だけではなくイギリス人も、イギリスの文法をやるのを中学でやるのが嫌だといっています。

全然知らないです。

だけども、うちの子どもは中国語の文法や文字は書けるけれどもできないといっていますね。

そういう意味で、ある程度はしないと、正確な日本語を教えるという点でいけませんけれども、あまりやりすぎるのも。

一方、文学系統の教材にしても、しばしば先生の解釈を強要されます。

同じ解釈を。

あれは非常にいけません

私が、例えば、学校に行っている当時に「あさがおに釣瓶取られてもらい水」というのがありました。

それを解釈したのですけれども、釣瓶は直線ですね、その直線に巻きつく螺旋と、あさがおのラッパ型の円と、その円と直線と螺旋の織りなす幾何学的美しさといったら、みんなに馬鹿にされたのですね。

やはり、そのように考える子がいてもいいのであって、しかし、先生としては、

「水を汲もうと思ったけれども、その釣瓶で汲んでしまうと蔓が切れてしまうから、気の毒だから」

というようなことをいわなければならないのですけれども、そういうのを、それに点を与えないで懲罰を与える、どうも国語を嫌いにする一つの方法かな、と私は思います。

ここに、試験や入試等において、「このとき作者はどう思いましたか」ということが、私も入試等でしょっちゅう試験に出ました。

それでも、私は大学入試だと6割ぐらいしかできないのです。

しかし、高校入試だと満点を取れるのです。

どうしてかというと、高校入試だとはっきりしているのです。

「次の5つから選べ」というときに4つはほとんどもうだめなのです。

ですけれども、大学入試になると、その程度では皆できてしまうので、もっと際どい問題なのです。

だから、私が考えて5つの中の3つぐらいあるのです。

あのとき、この中にあったけれども、さあどれが一番強かったか、となってしまうのです。そういうようなことをして、嫌いになることもあるかなあ、と思うのです。

しかし、教育とは、やはり先生のパーソナリティーがあれば、どうにか切り抜けられることで、教育においてはパーソナリティーに比べれば、マイナーな部分だと思うわけです。

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日本的な情緒をもっと世界へ

3番目は文化とはどのような意義をもっているのか、ということですが、先ほど、世界的なと言いました理性基幹です。

論理的思考ですとか、合理精神などの世界を制したものです。

その中で今、ヨーロッパが毎年増え続けていますけれども、どんどん、下り坂を下り降りています。

ヨーロッパが頼りだったのですけれども、その頼りのヨーロッパがどんどん、下り降りているのです。

それはどうしたらいえるかということで、やはり、そろそろアジアの出番がきているな、という感じがするのです。

先ほど述べましたとおり、日本人にはいろいろなすばらしい資質、情緒等があるわけです。そういうものが、今まで世界に単なるエキゾチックなものとして、文学上で評価されただけで、現実には評価されていないのです。

そういうものがだんだん、評価されていかなければいけないのではないか。

その代わり、日本人はそういう風土を世界にどんどん、発信しなければいけないわけですね。

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