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思考と数学
○
数学は採点しやすい
考えるという行為は誰もが無意識に行っているにもかかわらず、それはどうすることかを説明することが難しいものでもあります。
その行為は「思うということ」とも「感じるということ」とも違います。
しかし、大学でも企業でも、「考える」とはどうすることであるかは余りに当たり前の行為として誰でも知らず知らずのうちに身につけていることとして、あらためて説明してはきませんでした。
ましてやどうすれば「考える力」がつくかを教えてくれるところはありませんでした。
また、「考える力」を身につける方法が解き明かされていない以上、我が国では「考える力」は、「育てる」よりも「育つもの」として扱わざるを得ませんでした。
文章を読ませる、書かせる、議論させる、そうした試みを繰り返すことで、自然と力はついてくるという文脈で語られてきた訳です。
しかしこれは
間違っています
。
おいしい料理をたくさん食べるだけで立派な料理人が育つ訳がありません。
料理の作り方から材料の選び方、使い方、道具の選び方、使い方まですべての手順を学ぶからこそ料理が作れるようになるのです。
「考える力」をつけよう、つけさせようとすると、必ず、
「考えるとはどういう行為であるか」
「その方法を身につけるにはどうすればよいか」また
「身につけさせるにはどうすればよいか」
を知識としてもつこと、そしてそれを説明し実践できる技術が要求されるのです。
これまであまり意識することなく行ってきた「考える」という行為を、
十分意識できる
ところまで分析し、取り出して見直していく必要があるのです。
(中略)
「考える」という行為は、必ず「結果(答え・目的)」に向かって行われる。
なんとなく考える、ボーッと考えるということは本来ありえないのです。
(略)
(誰でも書ける論文講座 Magazine 週3刊 第2号を参考にしました。)
細井勉(東京理科大学)
一般には、論理とは同じような考え方をしている集団がお互いに納得しあえる理屈のこね方のことです。
ですから、「数学の論理」とは、数学にかかわっている人たちが「もっとも」だとして、納得しあえる導き方のことです 。
集団により理屈のこね方は異なりますから、「論理は一つ」という考えは誤解です。
数学の思考では数学の「論理」が使われ、理科では理科の「論理」が使われ、国語では「国語」の論理が使われるのです 。
数学の論理は、当然、数学として考えたことを記述・伝達する道具にすぎません 。
それは、考え方、つまり、何かを考え出す方法・技術を示しているものではなく 、
単に思考した後で用いられるものにすぎませんから
、
数学の論理を学べば思考力が養われる という考えは真っ赤な誤解
です 。
ところで、すべての学問は、太古からの歴史を考えれば、特別な知識も何もないところから出発しています。
ですから、「知識」なしの思考も可能だとは思われます。
しかし、文明・文化が進歩した現在では、すでに長年、何世紀にもわたって、いろいろな知識が蓄積されていますから、
知識を仮定しない、知識がないままの思考は非常に貧弱なものになります
。
また、不経済なことです。
ということで、数学でも、定義・公理、さらには定理、というたくさんの知識・前提を用意して出発します 。
そこで、知識についてですが、知識が豊富だと、思考が楽になると思われます。
それで、知識を暗記することが必要だと思われていたりします 。
しかし、一般に、思考力の育成という観点からは、知識そのものを創り出す能力が望まれます
。
ですので、思考力の育成においては、知識は必要悪の一種です
。
ついでに言うと、このことから、数学科は暗記科目か、そうではないのか、という議論があるわけです 。
(中略)
一方、思考をアルゴリズムとして教育できるとすると、それはマニュアル人間を造ることを目標とすることになります 。
しかし、思考の本質的な部分はアルゴリズム化
できない
のです。
多くの場合に、論理的に飛躍した思考が必要なのです。
そして、飛躍している部分を正当化するために、
思考の後で
、論理が使われるのです。
思考に関して、
重要なことは、はじめて遭遇する場面に対しての処理を考えるという能力
です。
審議会等が要望している能力もそれだと思います。
そういうことは、教室で教えきることが
できない
のです。
かろうじて
、幾何の問題では、教えてない場面について考えさせるというものがあり、それが昔から思考力を育成していると言われている要素かと思います。
(中略)
論理を教えても、思考力が増
しません
から、論理を集中的に教える必要はありません。
まして、数学Aのように変な、間違った論理もどきは教えるべきではありません。
教えるのなら、正常な論理の入門部分を正常な方法で教えることです。
(略)
論理と情緒
どうやって教育を立て直すか。
私の持論は、初等教育における国語の充実です。
その理由は、まず「国語は思考とほとんど同じ」だからです。
言語は考えた結果を表現する手段ですが、
もっと重要なのは、言語が思考に用いられること
です。
さらに
、言語は情緒まで支配します。
女の子を好きになった男の子に、「好き」と「嫌い」としか言語がなかったら、直線的な情緒しか生まれません。
「慕う」、「恋いこがれる」、「片思いする」、「惚れる」などの語彙があれば、それだけ情緒が豊かになります。
200の語彙しかない人は、それだけの思考しかない人です。
国語は、すべての知的活動の基礎です。
国語ができないと、理科も社会も算数もできません。
そこで、昔から読み書きそろばんを重視してきているのです。
「読み」で重要なのは漢字です。
日本語の語彙の大多数が漢語だからです。
小学生の頃は記憶力がよく、批判力がないので、そのうちにたたき込まないといけません。
中学・高校になって強制すると反抗されます。
最近の教育学では、「たたき込んではいけない」、「学習を支援する」と言いますが、それは子どもへの迎合です。
独創性や創造性は、
基礎が備わっていてこそ
、その先に出てくるものなのです。
子ども中心主義は、1980年代に米国が失敗した教育理論です。
これを反省し、90年代に子どもの学力は向上しています。
米国は、日本の繁栄の秘密は初等・中等教育にあると考え、時のレーガン政権は日本の教育に習って、基礎教育をきちんとやることにしたのです。
ところが、逆に日本の教育学者は、80年代に
失敗した米国の理論を90年代に取り入れ、2002年から「ゆとり教育」として始めた
のです。
1年半前の中央教育審議会で、私が「きめ細かく、かつ厳しく教えることが必要だ」と言ったところ、同席の教育学者に、「厳しくしたら生徒が傷つく恐れがある」と反論されました。
生徒が傷つくことを恐れて、何を教えることができるのでしょうか。
厳しくしないと、子どもの個性は、宿題をしない、私語をする、テレビばかり見る、といったことに発揮されがちです。
「読み」が大事なのは、教養を得る手段の80%以上が
活字を読むこと
だからです。
教養とは、文学や歴史、思想、芸術のように、生活する上からは役にも立たないかも知れませんが、それを大事にするのが品格のある国です。
人の上に立つ人は、教養がないと困ります。
教養がないと、大局観、長期的な視野が持てないからです。
かつて、日本にも教養主義の時代がありました。
高校時代は、ドストエフスキーやモーパッサン、トルストイを読んでいないと恥ずかしい思いをしました。
それがなくなって、利害・損得だけで物事を考えるようになり、国民全体が大局観をなくしたのです。
子どもには好きなことばかりやらせないで、勉強や手伝いをさせることで「我慢力」が身に付きます。
きちんと机に向かうのには、我慢が大切です。
世界中に起きている
読書離れ
も、
我慢力不足
からです。
テレビを見たり、テレビゲーム・インターネットをやるのには、我慢はいりません。
しかし、活字を追うには、たいへんな我慢が必要です。
価値観は、押しつけないと身に付きません。
人のものを盗んではいけない、いじめはいけない、交通ルールは守る、あいさつをするなどは、説明する必要はありません。
だめだからだめなのです。
やるべきだからやるんです。
やりたかったらやってもいい、やりたくなかったらやらなくてもいい。
そんな甘い教育では、大事な価値観は身に付くものではありません。
論理的思考
を身に付けるためにも、国語は非常に大事です。現実の論理は、国語を通して教えるのがいちばんいい。
書いて話して、主張させる
のです。
人を
説得
するには、論理的で筋が通っていないといけないので、自然に論理的となります。
これは
表現技術の問題
なので、「国語」の授業が受け持たないといけません。
国語が重要な最大の理由は、情緒を培(つちか)うからです
。
情緒がしっかりしていないと、出発点を正しく選ぶことができない
。
例えば、東大法学部をトップで出た素晴らしい論理力の人が、情緒が育っていないとどうなるか。
彼が誤った出発点を選ぶと、後の論理が正しければ正しいほど、結論は誤りになってしまう。
そういう人が一番恐ろしいと言えます。
日本では40年ほど前まで、飢え死にするような貧困が目の前にありました。
その時代には、他人の不幸は教えなくても育っていたのです。
ところが、生活が豊かになった今、教えないと分かりません。
貧しい時代の小説や詩を読むことによって、他人に対する
同情心
を養うことができます。
「もののあわれ」は、日本が世界に誇ることのできる情緒です。
数年前、わが家に来たスタンフォード大学の教授が、網戸の向こうで虫が鳴くのを聞いて、「あのノイズは何だ」と言いました。
米国人にとって、虫の音は雑音なのです。
私は、信州の祖母が、枯れ葉が散り虫の鳴き声が聞こえると、「もう秋だね」と涙を浮かべていたのを思い出します。
新古今和歌集を研究しているオックスフォード大学の先生に、「日本文学の何が難しいか」と聞くと、「もののあわれ」だと答えました。
日本人は、古典を通して「もののあわれ」を学ぶべきです。
美に対する感動は、自然に身に付くものではありません。教育の成果です。
美しい夕焼けを見て母親が感動していれば、一緒に見ている子どもも感動するようになります。
情緒に根ざした、家族愛・郷土愛・祖国愛・人類愛を持っていないと、世界に出て尊敬されません。
国家とは、領土でも血でもありません。
国語です。
国語には、民族の伝統・文化・情緒などのすべてが詰まっているからです。
その国語を中心に据えないといけません。
(平成15年2月18日 藤原正彦 お茶の水女子大学教授 都内の講演にて)ideal family 4月号
島根県学校図書館協議会のホームページを参考にしました。
川村渇真の「知性の泉」
(ハードウェア システム設計者(ソフトウェア設計も含む))
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